アメリカ人は見た目がグロいとかで敬遠するが、一度食すとアホみたいに食う
マジで食う
俺のカレー鍋 (20人前分はある)が一晩でなくなるほど食う
ふざけんな、大学のツレだからって一晩で全部食うな、しかも翌日のパーティ用のを
明日 どうすんだよちくしょう、フレッド、なんとかしろ
昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。
どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。
赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。
これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。
「花があったらなあ――」
あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
また、RFAの平壌市情報筋は、朝鮮労働党組織指導部の副部長、朴明哲(パク・ミョンチョル)体育相らが参加するなか、
代 表選手らに関する論争の集まりがあったと明らかにした。
集まりは非公開で行われ、体育省傘下の各種目選手のほか、平壌体育大学、金 日成(キム・イルソン)総合大学、
金亨稷(キム・ヒョンジク)師範大学の体育学部生400人余りが出席した。
北朝鮮代表チームのキ ム・ジョンフン監督と選手らを舞台に上げ、相次ぎ批判を述べ、サッカー解説者が個別選手のミスを指摘。
最後には代表選手一人一人にキム監督を 批判させたという。











